理解なんてされなくていいんじゃないか?




「あーほんとにお前の言ってることわかんねーわ」
「なにがいいたいんだ?」
「理解できねー」

 そんな風な言葉をかけられた事のある人は多くいると思う。自分も基本的に他人から「よくわからない人間扱い」されているので自分のことを空っぽ人間だと思ってる。

 人からみて表現の難しい人間なんだと。そんなふうに自己嫌悪に陥った時期もあります。

 高校のとき、クラスがずっと一緒だった人に、

「3年間一緒にいたけどよくわかんない」

と言われたときの虚無感たるや。思わず「まじか」と声が出ましたからね。おれもあんたのこともうわかんねーよ…

 はっきり言うと、「理解」なんてものはないです。エスパータイプか、斉木楠雄かじゃないと人の気持ちを理解することは不可能。気楽にいこう。

理解しない.できないのは当たり前

100%わかりあえる人は存在しない

 そもそもの結論ですが、ぼくらは超能力者じゃないです。人の気持ちは読めません。世の中の理解って信頼の上に立ってます。

 互いが知ってる知識を総動員して、どこかに共通項を見つけて、落とし込む。

理解することは、おたがいどこか妥協してる。

自分の持ってる経験や環境を、どうにかあてはめて、なんとなくわかった気になってるだけ。

「理解した気」になっているだけで完全な意思疎通はできてない。血のつながった親族でさえ不可能。親族が神様じゃなければ。

「手に取るようにあいつのことがわかる」とか言ってる人いたら多分ブラフをかけているので、揺られないように。そういうこと言う人らの言葉信じてたら、いつか壺買わされますよ。もしくはアムウェイへめでたく入会。

 分かってるといくら言っても、だいたいわかった気になってるだけ。大学時代ずっと一緒にいたからとか、幼少期を一緒に過ごしたから気持ちがわかるとか、そんなわけないんですよ。四六時中一緒にいても価値観や気持ちの共有は永遠の命題です。

 それに加えて言ってしまうと、理解されないほうが個性は強い。理解されてしまう事は、その人の個性が消滅することに似てる。

理解することは個性が消えること?

 会話における便利な言葉に「なるほど」がある。この言葉の「汎用性の高さ」ってのはとんでもなくて、言葉の抑揚さえ気をつければこれだけで一日乗り切れることもある。困ったら使っとけな便利な言葉。出し特な言葉。

 1対1なら、さすがに不可能だけど、「返しの言葉」としてをこれひとつでやりきるツワモノもいる。ほんとに。ただ、そうして出来上がった会話のほとんどは、

キャッチボールを超えたドッチボール。殴り合いだ。

 なにもわかってないの「なるほど」。ちょっと理解できることを言われたときの「なるほど」。ほかのこと考えてたときの咄嗟の返しの「なるほど」。

 とにかくなるほどなるほど。なるほどの応酬、ラリー。一日でだれかの会話で登場しないことないんじゃないかと思う頻出ワード。TOEICか? なるほどなるほどと聞くと、逆転裁判やりたくなる。


3以降の逆転裁判は別ゲー。1〜3はほんとに神ゲーにふさわしい。

 この言葉、便利なのに消費されず、淘汰されない理由は「理解してない」からだと思うんですよ。「なるほど」の四文字からにじみ出る「なんにもわかってない感」がずっと使われる理由なんですよ。

 すべてを悟ったかのように「なるほど。ふむ」とか言ってドヤ顔かましても、ほっとんど理解してないんですよ。本当に100%の理解をしたら「なるほど」なんて言葉出ないんですよ。その

「理解の曖昧さ」がこの言葉の息を長くしてる。

「よくわかんないけどいい」が大事

 100%理解できちゃった場合、研究が終わって、研究対象がなくなる。興味を失ってしまう。理解が簡単なものになると、個性が消費物に変わってしまってしまう。

 この文章も噛み砕いて書いてますが、自分が書きたいように書いたら理解なんて到底追いつかないです。たぶん自分自身すらわかりません。

 例えば場の勢いで、ノリノリで文学やポエムを書いたとします。数日後に読むと、「なにいってんだ自分….」となることも多いです。自分で書いた文章なのに意味が分からないんですよ。国語の授業でやったように「作者の気持ちを述べよ」状態に陥るんですよ。作者自分なのに。(ただ、創作ってそんなものだと思います。意味わからないから創る必要があるんだと思います)

 誰かになにかを伝えたい時は、「100%はムリでも数%くらいは伝わればいい」くらいの気持ちで書いています。

 理解されないから、個性が消えずに残る。「この人の考えてることはよくわからんけど素敵」みたいな人いないですか? その「よくわかんけどいい」の感覚がすごい大事で、愛すべき対象になりえます。

楽しい飲み会で3次会が急につまらなくなる現象。

 よくわからないから興味がずっと残って、心にのこる。疑問のひとつや余白を作れないと人の心には残りません。飲み会とかで1次会は楽しかったけど3次会まで残った場合に、間延びすることありません? あれ多分その場にいすぎなんですよね。いいタイミングで解散して帰宅するから、また遊ぼうと思えたりする。全ての飲み会がそうとか言いませんが、経験ある方いないですかね。続けることも大事ですが、それと同じくらい終わることも大事です

 例えばスラムダンクの終わり方、モヤモヤしたでしょう。続き読みたくなりませんでしたか。結局披露してないBLEACHの護廷13隊の卍解気になりませんか?

 私、気になります! でも存在しない。だからずっと語り口になるのです。

「理解は勝手な押しつけ」

 この「理解」というのを半ば放棄したのは、中学に、他人と相容れない自分に吐き気を催してたころ。少年マンガを読んで「ひととひとはわかりあえる」と思っていた。

 だがしかし、中学生の多感な時期に、見えない会話の壁に激突し

「あれ!?もしかして人って人を理解できないんじゃ!?」

となり、「完璧な」理解をあきらめた。中学でその疑惑が発生し、実際に「理解」を諦めたのは高校性の頃だったけど、その諦めることは結果としてわるくなかった。

 理解を諦めることは言い換えると「多様性をみる」こと。「理解しよう、わかってほしい」と思ってる頃よりよっぽど人間関係が楽。

 「この人はこういう人」だと割り切れることで、より他人に面白さを感じることができるようになって、何より争いが生まれず落胆も減る。誰かを変えるつもりもない。外からムリに言われなければ変われない人なら、どうせどこかでまた戻るか落ちる。

 他人にレッテルを貼らずに接すれば、人の面白いところが純粋に見れる、嫌いにもなりにくい。ひとがひとを嫌いになったりするパターンはいくつかあるが、その一つが

「理想から離れていくこと」

だと思う。求めてるものが多すぎる。他人に期待しすぎて、勝手に荷物を背負わせて勝手に期待して勝手に落ち込む。

 
 理想は持つなとは思わないし、持つことは素敵だと思う。だけどそれを押し付けることは正直殺人みたいなもん。ただの傲慢な拷問ですよ。社会でやってしまうものなら、なんちゃらハラスメントて名称がつきますよ。コンプライアンスにひっかかるでしょう。

それでも「この人だけにはどうしてもわかってほしい」と思うひとも出てくるが、すべての人にそのリソースを割く必要がなくなったので楽になった。

 理解してほしいとか、承認してほしいと思うひとは、一度理解を諦めたらいいかもしれない。

気がついたら自己啓発本みたいなノリになってしまってうすら寒い。

ではまた。

人に理解されるためには、「理解されない」を理解すること

2018.05.04
hitoto

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